ぐちさき

今日も愚痴といいわけ。

やっぱり少しは読んでもらいたくなった話

読まれたら読まれたで批判的なコメントをもらったら、思い上がっていた自分に自己嫌悪するまで見えています。めんどくさいおじさんです。ひろさきです。

 

 

気づかずに何か悪いことをしていて怒られるんじゃないか、みんな黙っているけど裏では笑われているんじゃなか、といった強迫観念に囚われたコミュ障なので、他者との距離が果てしなく必要で、パーソナルスペースは東京ドーム3個分と言って憚らないのですが、

承認欲求は心のうちに燻っており、誰かに褒めてほしい認めてほしい、と少年のような心持ちのめんどくさい中年ですので、このブログもやっぱり誰かに読んで欲しいと思うようになりました。そんな折、

SNS時代は「直感的にわかる文章」じゃないと伝わらない|竹村俊助/編集者|note

を読みました。

音楽や動画でも最初の数秒で目や関心を引く必要があるそうです。先日観た関ジャムで藍にいなさんのお話が面白かったです。テレビ大好き。

竹村さんが言及している通り、現代の人は忙しいのです。ブログはもちろん、音楽や動画、ゲームやSNS、すべてのメディアが顧客ひとりの時間の奪い合いをしているわけです。出会いがしらの数秒がいかに大切か、わかろうと言うものです。

 

理解したところで、改めて自身のブログを見てみます。

わかりづらく長ったらしい文章を垂れ流し、画像も文字修飾もほとんどありません。数秒でわかるどころか、最後まで読んでもおよそ意図が掴めません。そもそも内容が暗い話で終始しており、エンタテインメントを求め彷徨う現代人がなぜネガティブなオーラをまとった中年の悲哀に満ちた駄文を読まねばならないというのでしょうか。全くもって何一つ読まれる要素がありません。絶望です。

 

しかし時代はめぐります。

絵画でも抽象派が隆盛したように、悲観主義ショーペンハウアーが時代の支持を得たように。

いずれわかりづらく鬱々として、文章としての体を成していないものが流行するかもしれません。終末思想的な。そうして、意味の分からない文章でも深読みし、こちらが思ってもいなかった意味を持たせて私の文章が持て囃される時代がくるかもしれないのです。

そう、時代が私に追いついていないのがいけないのです。末期。