ぐちさき

今日も愚痴といいわけ。

善悪の基準は時代とともに変遷するのだから、それを踏まえた上でもう少し穏やかな世の中になったらいいのに、という話

高校生の時にJ-WAVEを聞いていて、ニルバーナを「ナーバーナ」と認識しており、CD屋で店員さんと話が嚙み合わなかったのは良い思い出です。いえ、CDを買えなかったので、良くはなかったです。ひろさきです。

ニルバーナが訴えられているそうです。

 

ジャケット写真が「性的搾取」にあたる、という訴えです。

訴えている内容はわからなくはないですが、それは「現代においては」だと思うのです。

***

このような「良し悪し」の基準は、時代によって変遷します。30年、40年前は、いたるところで吸えたタバコが、いまや吸える場所を探す方が難しいです。LGBTにしてもここ10年、20年ほどで、認識すらされていない状況から社会的な問題として認知されています。アンケートや各種申込書の性別欄に、「その他」や「記載しない」が選択できるようになっていますね。

 

時代背景やテクノロジーの進歩、マイノリティな人たちの努力などによって、善悪や正義、倫理観などが変わることは当然ですし、変わる必要もあると思います。

では、その変遷されていく基準をどこまで遡及して適用するべきなのでしょうか?

ほとんどの場合、当時の社会通念上問題がなかったことですし、悪意があったとしても証明する手立ては、ほとんどの場合難しいと思います。一方で今なお過去の経緯により苦しんでいるとすれば、救済が必要なケースもあるでしょう。

当然ケースバイケースで、正解がない問題ですので、司法判断に委ねられるわけですが、昨今の「少しでも傷つく人がいるならば、禁止にすべき」という論調を危惧しています。ましてや、それが当事者でない人たちからの発言だと、どんな顔をすれば良いかわかりません。笑えばいいと思うわけがありません。

 

誰かが一方的に我慢を強いられるのは健全じゃないです。かといって、すべての人が誰も傷つかないでいることもできません。それこそ「誰ともコミュニケーションを取らない」くらいのことが必要です。それはそれで苦しいですね。

ここはひとつ、みんなが受容すること、許容することの範囲を少しずつでも広げられるといいんじゃないかと思うわけです。価値観にプライオリティをもって、許せるものについては目くじら立てず、「今度から気を付けてね」で済む世の中になって欲しいものです。

 

さて。そうやって穏やかな世の中になってくれれば、私が何かやらかしても怒られなくて済む、というものです。ですが、過去、毎日のように終電まで働かされたこと、どう考えても許容量を超えたタスクを割り振っておいて放置したこと、ワークフローシステムの入力を忘れてて、システムのリリースに支障をきたしそうになったからといって怒られたことは許しませんけどね!最後のは私のせいですけどね!