せっかく買い物をしたのにモヤモヤしている話
人間としての器が小さい私こそ、真のミニマリストなんじゃないかって。ひろさきです。
AMAZONでお買いものをしました。1600円くらいのものです。
時間をかけ、いろいろとほかの商品と見比べて、他のサイトと値段比較して購入を決めました。200円くらいは安く買えたと思っており、達成感があります。小さい。
意気揚々とクレジット決済し、日課のネットサーフィンで溺れかけていたところ、AMAZONさんから「クレジットカードの承認が得られませんでした。」という通知がきました。
最初に考えたのは不正利用。知らない間に不正利用されて、限度額まで使い切ってしまっている疑惑です。
初恋の人と初めてのデートをするようなドキドキ感を感じつつ、クレジットカードのサイトで利用履歴を確認しました。初恋の人とデートをしたことがないので、正しくないかもしれません。
利用履歴は思い当たる内容のもののみ。利用額も限度額までとは程遠く、不正利用疑惑は払しょくされました。一安心です。
ではなぜ?と思い、得意なGoogle検索でそれらしいページを流し読みしたのですが、有効期限切れや通信エラー、支払いが滞ったり、リアルサイトでの買い物で暗証番号を間違えたり、といずれも身に覚えのないようなものです。
とはいえ、どのサイトも最終的にはクレジットカード会社に問い合わせてね、とのことでしたので、うだつは上がらないものの、素直に育った私はクレジットカード会社に電話してみました。
携帯電話からだと20秒で10円課金されていくという、小市民には緊張感のある状況での電話です。なるべく早く、かつ間違いがなくガイダンス操作を行います。爆発間近の時限爆弾の解除をしているかのようなドキドキ感を感じつつ、窓口につなげるためのガイダンスを進めていきます。時限爆弾を解除したことがないので、正しくないかもしれません。
手に汗握った割には、順調にご担当者に電話がつながりました。さっそくAMAZONでの買い物ができない理由、クレジットカードのオーソリが通らない理由をお聞きしました。
「弊社のセキュリティシステムに引っかかったようです」
クレジットカードの状況確認のため、カード番号、氏名、生年月日、住所など赤裸々にお伝えし、その上「1600円のお買い物でよろしいでしょうか」と「おっさんのくせしてちんけな買い物しやがって」と思われているに違いなく、辱めを受けながらもお聞きした回答が、上述の通りです。
こちらの意図したことではなく、この決済を通したいのです、と蚊の鳴くような声で懇願したところ、24時間セキュリティを解除できるぞ、とのお言葉をいただけました。
セキュリティを解除するための質問、ということで最近のカード利用を聞かれました。「プライムビデオで100円分の買い物をしました」と、恥辱にまみれて憤死するかと思うようなことを告げて、ようやく解除処理を進めてもらえました。
なぜ年相応な値段のものを購入していなかったのか、と悔やみつつ、解除処理には少々時間がかかるため、電話口でリズミカルな音楽を聴きながら待っていたのですが、頭をよぎるのはチャリーン、チャリーンという課金音です。あの、タクシーで最初の2キロを超えた後の感じ。財布の中を必死に思い出しつつ、メーターが上がっていく度に胃がキューとなる緊張感と同じものを味わいつつ、待ちました。
ほんのわずかな時間だったにも関わらず、一日千秋の思いで待っていた私は思わず、「こちらの意図しないセキュリティシステムに引っかかり、買い物ができなかったら、毎回こちらに電話しないといけないのでしょうか?」とお聞きしてしまいました。電話料金がもったいない、とかそういうみみっちい話じゃなくて、と心の中で付け足しながら。
そんなこちらの複雑な思いを知る由もなく、電話先のオペレータの女性は「そうです」と回答してくれました。きっとクールビューティです。
これ以上小さい男だと思われたくない私は、失意の中小さな声で「分かりました。。。」と告げ電話を切ったのですが、1600円の買い物をするために、数時間をかけ、200円ほど安く買えたはずなのに、クレジットカードのセキュリティのせいで「1分あたり30円 × 5分くらい = 150円くらい」の通話料を使ってしまったことのモヤモヤで、先ほどから気分がすぐれません。
忙しさと分断の話
「忙」とは心を亡くすと書く、とうまいことを言うもんだなぁと思いますが、ということは漢字の成り立ちのころからの問題だったのですかね?だとしたらすぐには解決しなさそうです。ひろさきです。
動画の平均再生時間で、TiktokがYoutubeを超えたそうです。
ブログはFacebookからTwitterに移って、140字で今思うことを表現するようになりました。映画や小説は要約サイトが蔓延り、掲示板では説明を3行で求められます。音楽も最初の5秒が勝負で、サビスタートの曲が多くなったそうです。
今の世の中は、どのようなメディア、コンテンツであっても、短時間で消費者に印象を与えなければなりません。そのため、いろいろな場面や立場に配慮した正確な言い回しではなく、はたまた周囲の情景を丁寧に切り取って、行間の中に本質を浮きだたせるような美しい表現でもなく、ひたすらに短く、強く、インパクトが強い、感情的な言葉が多用されるようになっている気がします。
自分に向けられた言葉でなくても、そのような刺激のある言葉を見るにつけ、危うさを覚えます。
強い言葉は傷になり、度重なる傷は裂け目になって、分断が起きる。
インターネットによって世界中とコミュニケーションが取れる時代になったにも関わらず、人と人との分断が進んでいる理由の一端ではないかと思えてなりません。
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かなり飛躍した話になってしまっていますが、世の中全体が忙しすぎるんじゃないかな、ってことです。もう少し、せめて文学や音楽など嗜好性のあるものくらいは時間をかけて楽しむ余裕があるといいね、と思います。心にゆとりがなければ、他者を慮ることも、共感や許容も難しいのではないですかね。
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さて。分断された世の中が望む世界ではない、と思えるのならば。まずはこの忙しさの原因となる仕事を減らしてはもらえないですかね、課長?
わからなさ加減の話
知らないこと、わからないことは相変わらず多いのですが、かといって新しく学ぶ体力も日に日に減ってきているのを実感しています。ある意味すべてが知らないことだらけで、新鮮!とポジティブに捉えてみたいと思います。ひろさきです。
「わからない」「知らない」のであれば聞けばいい。と上司に怒られたのですが、本当に知らないものって、問題を見つけることも、質問として言語化することも、そもそも誰に聞いたらいいかもわからない。っていうことってあると思うんですよね。
— ぐちさき (@rb3mWXyYkPNlmIW) 2021年9月2日
私だけなのかな。。。
全世界に向けて、取るに足らないことを垂れ流しても怒られないという、夢のような素敵アプリケーションで上のようなことをつぶやいたのですが。
自分の無知を棚に上げて奥の方にしまい込んだうえで、「具体的な指示をするのがリーダーなんじゃないかな」、「迷う部下と一緒に考えることもリーダーとして必要なんじゃないかな」と直接言えもしないことをモヤモヤと考えていて、うっかりツイートしてしまったわけですが、そもそもこの「わからない状態」をどう説明するのかってなかなか難しい問題だよね、と思いました。
なんとなくわかっているけど具体的なアクションに迷う、なのか、確かに今は知らないけれども、調べることはできるレベル、なのか。はたまた何が問題で、何をしなければ良いかもわからない、のか。
わからないレベルによって、取りうるアクションも違うだろうし、リーダーのフォローも変わるのだろうと思います。リーダーとメンバーで、そのわからないレベルも共有したうえで会話しないと、私のようにくさくさしてワールドワイドにグチるという愚行に走る人が出てきてしまうのです。
いっそのことISOで標準化してもらえないだろうか。
「今のお話、WL(分からないレベル)3ですね」
「じゃあ社内ポータルからマニュアル探して読んでおいて」とか。
「依頼された件ですが、WL5のため相談させてもらえないでしょうか」
「ではまずは背景から説明しますね」みたいな。
そして私のいないところで、「MWLM(マジわからないレベルマックス)だわーウケるー」とか言われるんでしょうね。ウケてないでまずは受け入れてください(切実)
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それはそうと、当の上司ですが、数か月前に私のいるチームが忙しく、ヘルプを求めた際に「そのシステムはわからないから」と言ってフォローもアドバイスもないどころか、一切関与されませんでした。
意識的、無意識的どちらなのかはわかりませんが(WL1)、人は自分のウィークポイントを他人の態度に見つけてしまうものなのかもしれません。きっと、さらに上司から同じ内容で怒られてるんじゃないですかね。そう思うと。。。やっぱり許しがたい。
私は心の棚は豊富ですが、狭量なのです。この気持ちわかりますよね?(WL5)
善悪の基準は時代とともに変遷するのだから、それを踏まえた上でもう少し穏やかな世の中になったらいいのに、という話
高校生の時にJ-WAVEを聞いていて、ニルバーナを「ナーバーナ」と認識しており、CD屋で店員さんと話が嚙み合わなかったのは良い思い出です。いえ、CDを買えなかったので、良くはなかったです。ひろさきです。
ニルバーナが訴えられているそうです。
Spencer Elden, who appeared as a naked baby on the cover of Nirvana's 1991 album "Nevermind," has claimed the record's iconic artwork is child pornography and is suing the band over alleged "child sexual exploitation." https://t.co/0D08g1vuXP
— CNN (@CNN) 2021年8月25日
ジャケット写真が「性的搾取」にあたる、という訴えです。
訴えている内容はわからなくはないですが、それは「現代においては」だと思うのです。
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このような「良し悪し」の基準は、時代によって変遷します。30年、40年前は、いたるところで吸えたタバコが、いまや吸える場所を探す方が難しいです。LGBTにしてもここ10年、20年ほどで、認識すらされていない状況から社会的な問題として認知されています。アンケートや各種申込書の性別欄に、「その他」や「記載しない」が選択できるようになっていますね。
時代背景やテクノロジーの進歩、マイノリティな人たちの努力などによって、善悪や正義、倫理観などが変わることは当然ですし、変わる必要もあると思います。
では、その変遷されていく基準をどこまで遡及して適用するべきなのでしょうか?
ほとんどの場合、当時の社会通念上問題がなかったことですし、悪意があったとしても証明する手立ては、ほとんどの場合難しいと思います。一方で今なお過去の経緯により苦しんでいるとすれば、救済が必要なケースもあるでしょう。
当然ケースバイケースで、正解がない問題ですので、司法判断に委ねられるわけですが、昨今の「少しでも傷つく人がいるならば、禁止にすべき」という論調を危惧しています。ましてや、それが当事者でない人たちからの発言だと、どんな顔をすれば良いかわかりません。笑えばいいと思うわけがありません。
誰かが一方的に我慢を強いられるのは健全じゃないです。かといって、すべての人が誰も傷つかないでいることもできません。それこそ「誰ともコミュニケーションを取らない」くらいのことが必要です。それはそれで苦しいですね。
ここはひとつ、みんなが受容すること、許容することの範囲を少しずつでも広げられるといいんじゃないかと思うわけです。価値観にプライオリティをもって、許せるものについては目くじら立てず、「今度から気を付けてね」で済む世の中になって欲しいものです。
さて。そうやって穏やかな世の中になってくれれば、私が何かやらかしても怒られなくて済む、というものです。ですが、過去、毎日のように終電まで働かされたこと、どう考えても許容量を超えたタスクを割り振っておいて放置したこと、ワークフローシステムの入力を忘れてて、システムのリリースに支障をきたしそうになったからといって怒られたことは許しませんけどね!最後のは私のせいですけどね!
DaiGoさんの動画がきっかけで議論が進み、より良い社会になって欲しいなぁという話
ひろさきです。
DaiGoさんの動画については、すでにいろいろなところから意見が出されているので、これ以上何かというわけではないのですが。
大半の方が批判されていて、まだこの国にも倫理観が残っていて良かった、と思うものの、依然として失敗のチャンスが与えられずらい世の中なのはなぜかな?とも思う。
生活保護やいろいろなセーフティネットがあっても、NPOのみなさんが頑張っていても、ホームレスで苦しまれる方が存在してしまうのは、なぜか。
セーフティネットのシステムに改善の余地があるのかもしれないし、ホームレスを続けざるを得ない理由にマッチする制度がないのかもしれない。金銭面の援助だけではなく、身体面、精神面の援助、学習の機会など総合的に不足しているのかもしれない。
いろいろなケースがあるだろうからすべてを救済することは難しいけれど、改善する余地はあると思うし、PDCAサイクルを回す必要があるのだろうと思う。
それと、やっぱり何か失敗してやり直すのって難しい感じがする。社会の空気として。
受験の失敗となれば、企業に入るのは難しくなり、生きるためにアルバイトや非正規雇用として生計を立てる。昨今のようなコロナなど企業の利益が損なわれれば、まっさきに雇用契約を解除される。非正規雇用での仕事で、特殊なスキルを身に付けるのは困難だし、職務経歴書でも有利にはならない。ましてや、空白期間ができれば、なおさらだ。
ホームレスに限らず、何かうまく行かずに再起を目指そうと思ったとき、目の前のハードルの高さが、けっして一人では越えられない高さになってしまっているのが、社会の問題なんじゃないか、と思う。
なんだかんだ言っても日本社会にはヒエラルキーがあって、転落は自己責任となり、二度と這い上がれない構造だ。これは政府だけでなく、社会全体での変革への取り組みが必要なのだろうけど、いったい何をすれば良いのだろうか。いつも通り他人任せで文句を垂れるたけでなく、自分がすべき具体的なことってなんだろうか。
まずは、やむに已まれぬ事情があったに違いない、と相手を慮ること。積極的にかかわる必要はないけれど、せめてそこにいることを受け入れること。想像力と受容。そこからなんじゃないかな、と思う。無理にいろいろなことを考えると続かないからね。
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氷河期世代の私は、ささいなことで「転落」することを知っており、這い上がるためには歳を取り過ぎたことも知っている。今回、動画の中で非難される側に近かったから、こんなことを感じるのかもしれず、自分へのセーフティネットとしてブログで発信しているのかもしれない。それでももう少し受容される世の中は、今よりもマシだろう、と思う。
オリンピック開閉会式で感じた、たぶんみんなと同じ心苦しさを考察した話
長々としたスピーチで一身にヘイトを集中することで、開会式のお粗末さを有耶無耶にしたバッハ会長の手腕が一番の見どころだったのかもしれません。そういう意味では閉会式のスピーチは物足りませんでした(長かったけど)。ひろさきです。
オリンピック、アスリートの方々には総じて素晴らしいパフォーマンスを見せていただき、ありがとうございました。大舞台のために長い時間を練習に費やし、体の隅々までコントロールされた数々の技には感動を禁じえません。
一方で開会式と閉会式です。
見続けるほどに心苦しく、居たたまれない気持ちになる開閉会式でした。自分が指揮したわけでも出演したわけでもないのにそのような気持ちになるのは、「疲れているだろうに退屈な演出で夜遅くまで無為な時間を過ごさせてしまってごめんね」という海外アスリートへの皆さんへの申し訳なさと、海外で視聴されている人たちに対する「こんなはずじゃない、本当はもっと面白くてアピールすることがある国なんです」という焦りに起因しているんじゃないかと思います。
この申し訳なさを感じる心こそ、日本人の「おもてなし」の心です。
まさか、日本人が自身の持つ「おもてなし」の心に気づかされる開閉会式だとは思いませんでした。反面教師として。
バッハ会長、橋本会長は開会式の反省を一切せずに、やっぱり長々とスピーチを閉会式でもしていましたが、これも反面教師として、今回の開閉会式の演出について反省点を考察してみたいと思います。
ハコに合わない演出の数々
急遽スタジオアルタから新国立競技場での実施に変わったのか?と疑問を持つくらい、会場の大きさとコンテンツがアンバランスでした。新国立競技場のキャパシティは68000人程度だそうですが、今回の「小芝居」の数々はいいとこ2000人規模の会場が適切に見えます。
開会式で良かったのは、ドローンと国家斉唱くらいでした。
国家斉唱はMISIAさんおひとりで歌ったわけですが、歌唱力のおかげで新国立競技場にあっても素晴らしい演目となりました。
ドローンの演出は空を大きく使っており、今回の開会式の中で唯一会場の規模にあった演出でした。
それ以外のコンテンツは集団で一つのモノを見せるというよりは、個々人がいろいろなパフォーマンスを見せる演出が多く、迫力も感じられず見栄えも良いものではありませんでした。
今回の開催地が下北沢だったら、と思うと悔やまれて仕方ありません。
コンテンツの統一感のなさ
開閉会式ともにパフォーマンスの一貫性が皆無でした。大工パフォーマンスと前衛的なダンス、歌舞伎とジャズピアノ、そしてイマジンの合唱やボレロ。閉会式も申し訳程度の紅蓮華や上を向いて歩こう、和太鼓や寸劇など、ひとつひとつのコンテンツは良いとしてもまとまりがありません。挙句、たくさんのストリートパフォーマーがリフティングしたり、ジャグリングしたりけん玉したり、と統一感のなさを凝縮した演出になっていました。
もしかすると混沌とした東京を表現したかったのかもしれませんが、場当たり的でどこにも集中できないため、どこにも印象が残らない開閉会式となりました。
メッセージがない(伝わらない)
開会式、閉会式ともに何を伝えようとしているのかわかりませんでした。「メッセージがない」のが今の日本だ、というメッセージだというのであればわかります。わかりますが、伝えなくていいしつまらないですね。
本当はいろいろと込み入ったメッセージがあるのかもしれません。演出家や出演者をよく知っていて、様々な歴史や玄人好みの知識(たぶんサブカルの知識)を持っていれば、深読みしたメッセージを受け取ることができるのかもしれないです。でも世界の数億人に向けて伝わらないと意味がありません。誰に何を伝えるのか、はプレゼンの基本です。会社だったら上司に怒られます。当方のブログ同じですね。すみません。
また、これ見よがしに七色を使うことでSDGsやLGBTに配慮していることはわかりますが、これもただ怒られたくないからそうしているだけのようで、メッセージ性を感じることができません。言っとけばいいでしょ、的な、まるで私の謝罪の言葉のようです。
「今オリンピックを東京で開催する意味」が全くと言っていいほど感じられないので、せっかくのパフォーマンスも表面的で心に届かないものに見えてしまうのでしょう。
今回開閉会式に出演された数多くのパフォーマーの方は、それぞれすばらしい技の持ち主なのに、評価を落とされた方も多々いらっしゃるのではないでしょうか。
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会場の規模に合わない小さい演出、統一感がなく集中できない演目の数々、伝わらない(あったのかもわからない)メッセージ、と、文化祭の漫才大会以上にスベリ倒した感のある、黒歴史が刻まれた大会になってしまいました。
どうしたら良かったのか
イベンターでも演出家でもないので、何が良かったのか、などとは言えませんが、今大会はコロナで開催も危ぶまれたのだから、割り切ってすべてオンライン開催でもよかったかもしれません。コロナ渦でのソーシャルディスタンスを守った開催という強いメッセージも伝わりますし、閉会式で流れたフランス大会のビデオのように、メッセージが明確で作り込まれた映像を観た方が何倍もよかったように思えます。アスリートも退屈な時間を過ごす必要もなく、長いスピーチも編集できたはずです。
コンテンツも今の日本を打ち出せるものにフォーカスすれば良かったのでしょう。それこそお台場のガンダムにアクションさせたり、キャプテン翼やドラゴンボールなど海外でも認知度の高い「アニメ」をうまく使ったり、富士山などの日本らしいロケーション(東京オリンピックだけど)を活用したり、と多少ベタでもわかりやすく日本を表現する必要があったと思います。
そして最も重要なのはメッセージをわかりやすく伝えることです。
もともとメッセージとして伝えようとしていた「東日本大震災からの復興」、東京という混沌とした都市だからこそ受け入れられる「多様性の受容」、コロナ過に立ち向かう「未来への希望」。それらのメッセージを日本らしさ東京らしさでアレンジした演出こそが求められていただんじゃないでしょうかね。
あと、日本で開催するなら3月か4月にするべきですね。
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なんだか反省ばかりの大会のように見えてしまいましたが、もしかすると後世に今大会を分析した歴史家が
「中抜きと丸投げによるお友達五輪」を体現した、研究対象として興味深い大会だった、
と評価される可能性もありますので、意義はあったのかもしれません。たぶんありません。
そんなわけで、次の日本開催は長い年月が必要でしょうね。飲み会にイタイやつを呼びたくないだろうし、受けた心の傷を癒すのに時間もかかるし。。。なんだろう、他人事とは思えない。。。
良い人になるにはどうすればいいか考えた挙句、結局なにもしなくて良いんじゃないかっていう話
よい人はよい人でも、概ね「どうでもよい人」として定評がありましたが、最近はほぼ他者との交流がないため、「どうでもよくすらもない」ので自分の成長を感じます。ひろさきです。
日々、良い人になりたいと思います。なぜなら、今が目も当てられない程度には性根が腐っているからです。
しかし良い人ってどんな人なんでしょうね。
悪いことをしない人
犯罪行為をする人は悪い感じですが、それをしないからって良い人とは言えない気がします。
お金を持ってる人、偉い人
無条件でお金をくれたら良い人に思ってしまいますが、そんな奇特な人がいるわけでもなく、自分が成れるものでもありません。そもそもお金持ちは他人の搾取の結果(ひどい偏見)かもしれず、偉いと言われる人でまっとうな人を知りません(これもひどい)。思わず妬みが先行し暴論を吐きましたが、お金持ちでも悪い人がいることは事実、偉い人でも同じです。国会中継を見ていればイヤというほど知れるというものです。
成長を是とし、自己実現を目指す人
企業では出世したり認められやすい人ですね。
以前声の大きい人の話にも書きましたが、そのような人の近くでは犠牲者や被害者も生まれがちです。一概に良い人とは言えないと思います。
ポジティブで明るい人
かなり良い人に近い気がします。が、わたしはポジティブで明るい人達の集団が苦手です。フォークダンスを楽しめるタイプの人達。一部のネガティビストには共感いただけるのではないでしょうか。とするならば、両手離しで良い人だ、とは言いづらい。
優しい人
重要な属性な気がします。しかし、無差別な優しさは他人を傷つけることもあります。こんな私に、その気もないのに優しく手を差し伸べられたら惚れてしまいます。しかし大抵そのような人は既婚か恋人がいらっしゃいます。
相手を慮れる人
これです。相手のことを考えられる人。他者の痛みを感じることができる人。良い人な感じがプンプンします。
相手のことを考えられるから、無理強いしない。自分の正義を押し付けない。相手の状況や可能性に配慮し、余計なことは口出さない。困っていそうだから声を掛けようと思っても、私を不審に思って怖がらせるかもしれない。落ち込んでいるから慰めようと思っても、表現がアレなだけで感激に打ち震えているかもしれず、邪魔しない方が良いのかもしれない。倒れている人に手を差し出そうと思うも、全力で地球をハグしてる最中かもしれない。
相手のことを慮ることによって、他人に不干渉な人こと真の良い人なのでは!つまり私のことじゃないですかね!(また結論を間違えました)
結局
良い人とは自分にとって都合の良い人を指すのかもしれません。そうとなれば、悪い人にならないように気を付けるだけで、あとは自然体でいればいいんじゃないですかね。きっと誰かの良い人になっているのかもしれません。
努力とか嫌いなので、ちょうどよかった。