現代の陰陽師の話
先にタイトルをつけてしまい、後からとって付けたような文章になってしまいました。これもひとつの呪いですね。セルフ呪い。ひろさきです。
陰陽師と言えば、式神を使役して、とか、五芒星や六芒星書いて、とか、星詠みして、 とか和風ファンタジー感満載ですが、取り上げたいのは「呪い」です。このブログにしっくりきます。
呪い、といってもカエルの血とかヘビとか毛虫とかを煮込んだり、藁人形をせっせと作ってわざわざ神社まで出かけるような、とても引きこもりにはできないアウトドア的なアクティビティではなく、普段の何気ない会話です。
鬱症状の人にがんばって、という無責任なことを言うと、「自分は頑張れてない」「こんなにやっても認めてもらえない」など、ひどくダメージになります。呪いですね。
鬱症状でなくても、「うちにピアノがあったら」や「友達はみんなSwitch持ってる」も、金銭で苦労されている親御さんにとっては呪いの言葉になり得ます。
会社においても「まだ回答もらえないですか?」とか「どうしてこうなるのか、原因を教えてください」とか、言う側に他意はなくても、その時の状況や気持ちによって、責められているような気持ちになることもあります。申し訳ございません。
このように意図しようがしまいが、言葉は受け手によって勇気づけるエンパワーメントになり得るし、傷をつけるナイフにもなります。
社会の呪い
ポジティブでいよう、成長しよう、友達を作ろう。一見良いメッセージに見えますが、やっぱり呪いの類です。なぜポジティブでなきゃいけないのか、ネガティブな自分はダメなのか。なぜ成長を求められるのか、現状維持ではいけないのか。他人に自分をアピールするなんてできない、友達なんてできない自分は落ちこぼれなのか。
あぁぁぁ、胸が痛む。
藁人形ではなく、直接胸に五寸釘を打たれるような気になります。
呪い、ダメ絶対
そんなセンシティブな我々を救うべく、発言はやめるべきだ、というと、それも暴論です。昨今は、ほんにゃららマターやらごにょごにょニズムのような、思想や運動の基、行き過ぎた言葉狩りがあるように見えます。繰り返しますが、「行き過ぎた行為」が問題だと思っています。社会の被害者であると自負している私は、差別は断固反対です。
ここまで書いても昨今であれば炎上しそうですが、炎上しようにも誰も読んでないので大丈夫ですかね?炎上したらそっとブログを閉じて布団の中でうずくまることにします。
とにもかくにも、いろいろな人に気を使って発言ができない世の中は、やっぱりディストピアです。
呪いを受けないためには
社会からも個人からも呪いをかけられる世の中で、いったいどうすればいいのか。目を閉じて耳を塞いでうずくまる、いつものスタイルでやり過ごすしかないのか。と、悲嘆に暮れてしまいますが、うずくまるのは最終手段としておき、徐々に防衛ラインを上げて対応していくのが良いと思っています。
私のケースで言えば、「発言の原因は自分ではない」と思うようにしています。そう、大好きないいわけです。社会や会社のシステムの問題にすり替えます。それでもチクチクと胸の痛みは残りますが、正面から受けるよりはマシです。それに、最近ではこのブログに吐き出すことを覚えました。やっぱり溜めたものは出さないと、体に悪いです。
もうひとつ、「人間とはただのチューブだ」とどなたの言説か忘れましたが、忘れられない言葉で、私の支えになっています。人は口から肛門までのひとつのチューブであり、電気信号と化学反応で動作しているモノに過ぎない、と考えることができるという話です。とかく、人間とは~であるべき、というあるべき論が世に憚っていますが、辟易します。それができない私は落ちこぼれた人間のなり損ないだと思ってしまいます。それが事実だとしても、そもそも私はただのチューブで、高尚な理想も理念もなくたって構わない、今感じている痛みも苦しさも、体内の化学反応の結果にすぎない。伝わりにくいとは思いますが、私はそう思うことで「痛み」を軽減しています。これが現代の名も知らない陰陽師による、呪いから身を守る術なのだと思っています。
長々と書いてしまいましたが、言葉がある以上呪いはなくならいし、少しでも軽減できるようになるといいね、という話でした。
そう、あなたも私もただのひとつのチューブです。You Tubeです。えっ!?