結局真実はどうでもよくて、自分に都合のいいことを選択してしまう話
常にどこかが痛み続けるなんて、子供のころは想像すらしませんでした。今はどこにも痛みがない体の想像ができません。ひろさきです。
団塊ジュニア世代であり初老でもあるので、身体のいたるところにガタがきています。コロナ禍による外出制限の中、ミスターStayHomeと言っても過言ではないほど外には出ず、生まれながらのインドア派の私ですから、運動などできようはずもありません。それに、嫌々従事している仕事により疲労困憊な状態が長いこと続いています。いい年でなくても体に異変が起ころうというものです。
そして朝、いつもの通りトイレに行き、尿を。。。あまりキレイな響きではないので、ニョーと表記します。
ニョーをしたところ、あずきバーを薄めたような色であり、け、け、血ニョーでは!?と血の気が引きました。まあ、ちょっと出ちゃってますからね。
どうするか。
病院ですよね。でも他人と話すことが苦痛で、注射が嫌いな私ですからその選択肢はまだ先に取っておきます。「どうしてこんなになるまでほっておいたんだ!」と怒られるタイプの人間です。
しかし心配なので、Google先生に相談します。「血ニョーとは」と。
悪性腫瘍、結石、膀胱炎、、、わからないけどヤバイ単語だという雰囲気はヒシヒシと伝わります。急いで病院に、となるかと言えば、そうはならない。
検索ワードが悪いということで「ニョーがあずき色」と、少しマイルドな表現にして検索します。結果変わらず。
もっとマイルドな表現を考えた結果、「ニョーの色が濃い」。赤色成分はいったん無視します。
ここでようやく原因として疲労やストレスが出てきます。
そうです。疲労やストレスならいくらでも心当たりがあります。それが原因に違いない。であるから様子を見よう、となるわけです。
本日は健康の話をしたかったのではなく、結局人って好ましい結果しか受け入れない、ということを言いたいのです。「正常性バイアス」とか言いますね。異変に気付いてもそんなことない、と言い聞かせてしまう現象です。これは身体の変化や体感する環境の変化だけではなく、意見や思想にも適用されるように思います。
自分の思い込みを強化する意見しか取り込まない。SNSが普及してから、特にその傾向が強くなった結果、原理主義者のような強い言説をする人が増えたように見えます。生きづらい世の中です。
強い信念は結構ですが、他者に強要するのはどうかと思うのです。ましてや対立して攻撃的な態度をとることや相手を論破することに心血を注ぐなど、もってのほかです。もしかすると、自分の信じている真実や正義は、他者から見れば滑稽であり到底信じられるものではない可能性があるのです。
その可能性を今日、ニョーで気づくことができました。サンキューニョー。
まぁ、様子を見るので病院には行きませんけどね。
(そのあと、だいぶ薄まった感じなので大丈夫だと思います)