バランスを取りすぎて何も言えなくなる話
最近よく体をぶつけます。自分のバランスすら取れない年齢になってきました。ひろさきです。
バランス教の信者です。
右か左か、ポリコレか表現の自由か、目玉焼きにソースか醤油か。
このような二項対立に直面すると、バランス教徒は「極論は良くない。ちょうどいいバランスを探るべき」と経典を片手にどちらにもメリット、デメリットがあることを語り始め、片方の利益が最大化するのではなく、どちらも少なからずのメリットを享受できる点を会話によって探ろう、と提案します。そして「ちょうどいい点」は必ずある、と信じています。
信じてはいるのですが。
現実は厳しいものです。会話しようにも、極論信者は得てして曲げられない強固な持論があります。全体最適を説こうにも自己中心的な方が多く、他人の不利益は自分には関係ない、とされる方も多い。そしてそのような方は声が大きい。
バランス教徒は和を貴ぶため、穏やかで強い言葉を用いない傾向があります。
知能指数の高いコミュニティにいらっしゃる方にはわからないかもしれませんが、私のように未開の地の底辺IT技術者周辺では、議論はたいてい声の大きさで決まります。もう少し奥地に進むと腕力になり、言葉は不要になります。
では、もう少し文化圏に近づいた場合はどうでしょうか。
互いに要望を主張し合う中へ単身飛び込んだはいいものの、怒りの矛先を一身に浴びることになります。そこで使えるカードは「まぁまぁ、落ち着きましょう」です。そう教わりました。
良い確率で炎上します。
明らかに頭に血が上っている人に言ってはいけません。
低いトーンで静かに起こっている人にも言ってはいけません。
つまり、使えないカードです。
そうして、場のヘイトを一気に奪い、場を乱したことを謝罪し、その場からすごすごと離れることになります。みじめです。
仕方がないので、文化の中心地での議論であれば、、、と思いましたが、すでに穏やかでロジカルな議論となっており、そもそも内容が理解できないため、割って入ることすらできません。
和を尊び、ロジカルな議論を尽くして、最善を求める。議論はしてもお互いの立場、主張を理解し、リスペクトし合える。バランス教のユートピアは幻想なのかもしれません。
そもそもこの教義を実践するには、高度なコミュニケーション能力、知能、知識を求められます。いずれも欠如した人間が理想を語るとはちゃんちゃらおかしい。
結果、極論は好きになれず、かといってバランスも取れず、ただただ静かに、たまに愛想笑いするだけの、何も言えない人間が出来上がります。
ミーティングで何も言えないのは、ただぼーっとしているのではなく、頭の中でぐるぐる考えた結果、黙っているのです。怒らないでください。じゃあ議事録を書け?すみません、聞いていませんでした。