世界の見え方と感じ方の話
駄文を垂れ流すことだって、大事な生きる術です。だっぶんだ。ひろさきです。
世界の事象はすべて「私」が認識していることに過ぎず、見方を変えれば世界は一変する。ということを書こうと思ってます。 ポジティブシンキングあるあるです。
デカルトが自分の存在を考えたように、タレスやソクラテスの時代から永遠と主観と客観、世界とは、について議論され、今日においてもそれは続いています。哲学ですね。
難しそうだし自分は学もないし、そんなことは考えなくていい、と思うものの、「世界五分前仮説」なんかをウィキペディアとかで読んでしまうと、寝る前についつい考えてしまい、今日も眠れなくなるわけです。
いくら考えたところで、自分の思考から抜け出すことはできず、世界が本当にあるのかなんてことはわかりません。翻って考えれば、自分が考えたことが認識する世界のすべてであり、客観や世界がどうあろうが、それは認識しようもないしそもそもその存在すら怪しいのです。いいですね。宗教染みてきました。
そこでこの暗くてつまらない、灰色で満たされた世界にゆらゆらと漂うように生きている私が、得意の妄想と言い訳と自己弁護を駆使して世界を一変しようと思い立ちました。
「仕事が遅い」「どうしてできてないのか」「以前お伝えしたことですが」と隙あらばいろいろな方から声をかけられるのは、私が人気者である証拠。気になって仕方がないのでしょう。
できないこと、わからないことを責めるような、その言い分。わかります。妬み、僻みですね。私も昨日までは他人を羨み、ひがみ、呪詛を垂れ流していたから、よくわかります、その気持ち。まあ、私は決して口には出しませんでしたが。
帰宅するときだって、世界は私のために廻っているようです。私のために電車が来て、私の周りに集まりたい人たちで車内は込み合い、颯爽とスマホでスマートに改札を出る私を、本当は見たいのに無関心を装う人々。
コンビニで弁当を買えば、袋はいりますか?と、袋なしで温めたスパゲティをどうやって持って帰るのか、と思うも、私と話すきっかけが欲しかったに違いなく、ほほえましい気持ちになる。なんて素晴らしい世kゲホッ
無理です。
いや、すべては自分が認識した世界だと思うし、ポジティブもネガティブも捉え方、見え方ひとつだとも思います。でも無理やりそう思い込めるのは、もともと陽の者としての素質があったのではないか、と考えてしまいます。風呂場の黒カビのように、ちょっとやそっとでは洗い落とせないほど凝り固まったネガティブ思考は、気持ちひとつで変えられません。たぶん、変えられては困るのです。いままでの苦労が無に帰すようで。
しかし。考え方は重要です。認識を変えるのが難しいなら、認識しなければいいのです。つらい時には目を閉じて耳を塞いでやり過ごしたっていいじゃないですか。部屋の隅っこで膝を抱えるってそういうことです。得意技です。
そして少しでも動けるうちに、元気になるコツを学んでおいて、ちょっとでも、すごく簡単なことでもやっておきます。
私はカレーを食べることにしています。
そして朝日を浴びるようにしています。
たまに散歩します。夜、こっそり。
世界のありようは頭蓋骨の中にありますが、そのInput情報は電気信号と科学反応です。カレーを食べたり、朝日を浴びたり、軽い運動をするのは、すべてセロトニンを分泌するための行為です。そうやって、生きながらえてます。
好きな音楽を聴いて涙を流す程度にはロマンチストなおじさんなので、疲れない程度に前を向いて歩くことで、いつか楽しくてうれしいことがあるかもしれない、と思っており、そのためにちょっとだけ努力しています。ものぐさなので、これ以上は無理ですが。
なんだかゴールが見えない文章になっていますが、
・世界は「私」の頭の中にあること
・「私」は電気信号と化学反応の結果でしかないこと
そう考えると、つらいことがあっても、少し休んで世界の見え方を変えてみようと考えたり、セロトニンの分泌に勤しんでみる、という選択肢が与えられる気がします。
これでトラブル対応で罵詈雑言が飛び交う中でも、そんなものはただの電波や信号だ。そのことで危害を被ることもないし、気にする必要はない。そう、「私」への影響はない、と考えることがでkゲホッ
毒電波だったようです。至急対応してきます。