振り上げたこぶしの行先の話
仕事で怒れる人はある意味尊敬します。怒るほど気力も興味もありません。ひろさきです。
「どうしてこんなことも気づかなかったのか」
むしろ気づいてたら対処してたよね。
「ちゃんとテストはしたのか」
なんでしてないと思った?テスト工程の承認とかしたよね?そもそもちゃんとって何?だいたい、気づかないケースのテストなんてできるわけないじゃん。
「顧客の迷惑になってるんだぞ。どれだけの損失になると思ってるんだ」
だからしゃべってないで早く対応させなさいよ。どれだけの損失なんか知るわけないでしょ。そもそも機械に頼り過ぎだから対応できないんじゃないすかね。
などと言えるはずもなく、すみませんとごめんなさいの間をメトロノームように行ったり来たりし続けるわけです。
以前生産性の話でも書きましたが、とにかく日本は承認行為が多い。
海外(と括るのは乱暴ですが)と比べて、日本の企業は裁量権のデザインがヘタクソな証拠です。
では、なぜ承認行為が多いのか。
→それは責任の所在をあいまいにしたいから。
→なぜあいまいにしたいのか。
→怒られるのがイヤだから。
→なぜ起こられるのがイヤなのか。
→それ聞く必要ある?
そうすると、海外の人は怒られるのが平気なのか?という疑問にぶつかります。
きっとイヤですよね。
ではなぜ。。。となりますが、それはミスしたときの反応の違いにあるのかもしれません。何かミスした際に、申し訳ございません、からの、責任者を出せという華麗な様式美のある我が国と、買い手と売り手が対等(場合によっては売り手の方がエラそう)で、ミスをしたら、ごめん、もう一回やって。と言える国の違いなんじゃないですかね。
ミスしてもすぐに対応して顧客の本質的な便益を損なわなければ、とくに怒られない国と、ミスしたこと自体を問題とし、責任の所在を明らかにしたうえで謝罪を求める国の違い。
日本は間違いなくサービスレベルの高い国ですが、それを「当たり前」と思い、少しでも損なわれると腹を立ててしまう。
甘やかされるとわがままになるのは自然の摂理ですね。海外から日本に来た人で、最初は電車の時間の正確さに感動をするのですが、長く日本に住んで慣れてくると、5分遅れるだけでイライラしてしまうそうです。
素晴らしいサービスですが、その素晴らしさゆえに提供するサービスのハードルも上がっていき、自分の首をしめている状況、それが今の日本です。
そんな過剰なサービスを提供していたら、生産性も上がるわけがありません。
話が盛大に脱線しました。
つまるところ、怒られがちな日本において、怒られたくない人が多くなった結果、責任の所在をあいまいにするために承認行為が多くなった、というわけです。
とはいえ。一度こぶしを振り上げると欲しくなるのは振り下ろし先です。腹を立てやすい環境の日本において、ミスの数だけ振り上げたこぶしがあります。そしてそれはどこかに降ろされることになるのです。責任論です。誰かにこのこぶしをぶつけるため、生贄の要求が始まります。そしてその生贄は反撃しなさそうな弱者に向かうわけです。つまり私です。
永遠と続く承認者の列では、怒られた分の怒りを、場合によっては責任そのものを下に下に、と受け渡されていきます。最終的には課長、係長など体のいい怒られ役か、実際に手を下した(プログラムを実装した、設計書を書いた)我々下々のもとへとやってきます。あとは殴られるままのサンドバッグ、同じことを繰り返すメトロノームになるしかありません。日本においては言い訳は「美しくないこと」なのです。
そして、せっかく時間をかけてつくった責任のあいまいさは、結局意味はないのです。得られるのはたくさんのポストと仕事をしたかのような無駄な時間。そして直接的に怒られない(上司たちの)安心感です。末端への恩恵などあるわけがありません。
そんなにいうなら海外に行けばいいのに、と思われる方もいるかと思います。
母国語ですら満足に話せないコミュ障の人間が、海外のあのテンションの高さに、しかもしゃべれもしない英語で、生きていけるわけがありません。秒で狂います。
このままでは我々下々のものは、いつか倒れてしまいます。さぁ、振り上げた両こぶしをそのままにして、一度目を閉じてください。大きく深呼吸をしてください。そして、ゆっくり握った手を開いて、上を見上げつつ手のひらを上に向けてください。くらえ、元気玉!