ぐちさき

今日も愚痴といいわけ。

記事を書き続けることの難しさの話

Dr.スランプあばれる君。。。年をとると自制が利かなくなるんだなって。ひろさきです。

 

 

思ったことを書けばいいはずのブログですが、ここ数日書きたくない気持ちになりました。きっかけは、もっと読まれるためにはどうすればいいのか、というさもしい気持ちで他人のブログを読み漁ったことです。そしていろいろと気づかされました。

 

見栄えをよくする

テーマに沿った写真を掲げ、太字や文字の大きさで読みどころを強調する。ただ投稿するのではなく、丁寧に記事を装飾されています。

しかしこれは気づいていました。気づいてましたが、できませんでした。めんどセンス的な何かの問題です。著作権とかいろいろありそうでなかなか手が出ませんが、まずはそのうち絵でもかいてアイコンを作るところから始めたいと思います。

「これは干からびた枝豆か何かですか?」「いいえ、これはミニチュアシュナウザーです。」

アイコンをセットした後の幻聴が聞こえます。

 

テーマの選び方

ブログランキングを見ると、旬の話題やブームをいち早く取り上げ、秀逸なタイトルをつけています。いろいろな話題について語れる見識の広さと、タイミングを逃さない瞬発力。もちろん、文章にする早さが必要で、頭の回転も速い。チートですね。

私には必要なものが諸々足りてないため、遠くから僻んでおきます。

 

文章力の高さ

どんなに内容が良くても読んでいただけなければ、そして理解してもらえなければ始まりません。政治や思想など、ともすれば難しくなりがちな内容でも、軽やかな語り口でするすると読ませるブロガーのなんと多いことか。文字装飾や改行、句読点などを巧みに活用してリズム良く読ませるセンスの良さ。一文の長さからわかりやすい単語選びまで、行き届いたおもてなし文章の数々は、一朝一夕で真似ることなどできません。

きっと学校で教えてくれなかったのがいけないのです。いや、教えてくれたのかもしれませんが、聞いていなかったのかもしれません。授業中は妄想に耽る派でした。

 

内容

これに尽きます。そんな考え方があったのか!と感心し、観察力の高さ、見識の広さ、豊富な知識に驚愕します。でもそれはいいです。何しろ考えも付かない内容なのですから、いくら時間を費やしても私のブログとは競合しません。ひたすらにスゴイね、と思い、少しでも自分の思考を深くするための糧にすれば良いと思うのです。ポジティブ。でもちょっと嫉妬。

一方で自分もそう考えていた、という内容の方が深刻です。骨格は同じだったとしても、表現の豊富さ、例えのわかりやすさ、問題の本質への深堀、どれを取っても敵いそうにないのです。

最終的なメッセージが似ている分、文章の良し悪しが浮き彫りになり、それはもう気持ちいいくらいに絶望します。スカイツリーからワイヤレスバンジージャンプ的ゼツボウです。

 

そうして始めたばかりで1か月も経たずに書けなくなる、というわけです。オリンピックで表彰台が狙える早さです。

ですが、私のブログはそもそも他人と比較して絶望するのがお家芸でした。それくらいしか特筆すべき点がないのです。それに、愚痴を駄文として垂れ流すことで少し気分がスッキリしたことも事実です。誰にも読まれなかったとしても、私にとってはそれなりに効用があるので続けているのだ、と言えなくもない。おかげで書くことが少なくなったがゆえのスランプ、とも言えますが。

 

ブログを始めて、ごく少数ではあるものの記事を読んでいただけたことに浮かれ、「これで有名になって、本を出版してベストセラー作家になって悠々自適な印税生活を手に入れたうえに女性芸能人と親しくなって写真週刊誌にすっぱ抜かれ、けじめとして結婚することになったら親になんて言おう」と悩み始めたころから欲が出てしまい、自分を見失いかけましたが、このブログはまっとうな社会生活を営むための矯正プログラムの一環だ、と本来の自分を見つめなおし、これからも思ったことを細々と書き続けられたらいいなぁ、と思いました。

 

 

声の大きい人の下には屍体が埋まつてゐるという話

何かをするには犠牲が伴うものです。それを知って欲しいのです。ですから私は何もしないのです。ひろさきです。

 

 

声の大きい人がいますね。サンシャイン池崎さん的な話ではなく、自分の主張ができる人。以前、「言わなければ伝わらない」を前提にしようね、という話を書きました。

 

hirosaki-idea.hatenablog.com

 

ですので、自分の意志を主張することは大事です。

大事なのですが。

 

割りを食う人

主張する人、できる人は自分がやりたいことの実現可能性を大いに高めます。例えば会社内において、トップマネジメントがコンサルに言われたことを鵜呑みにして、社員にスキルアップを奨励します。まぁ、間違いではないですが。

そこでいち早く手を挙げるのが、主張する人です。そうやって手を挙げて研修に行って自身のスキルアップに精を出します。研修だけではなく、社内行事などでもいち早く手を挙げ、社内にコネやツテを作ります。そうやって社内での存在感を増していき、出世していくのです。

主張できる人にとっては、いいことづくめですね。

一方で、そうやって研修や社内行事で不在になった人の分の通常業務はどうなるのでしょうか。

そうです。主張できない人がやるのです。

 

主張できない人のことを気づいて欲しい

主張できない人の全員がやる気がないわけではありません(私を除く)。全体の業務量を考えてしまい、たとえ自己研鑽であっても自分が不在になることを「わがまま」と捉えてしまっているかもしれません。主張する人の抜けた穴を埋めるため、通常業務が忙しくなったために、同じ思いを他のメンバーに強いることに気が引けているのかもしれません。主張する人は、そういった人たちの屍の上に立って研修に行けているのだ、ということを肝に銘じてほしいのです。

そして何よりもマネジメントこそ、そういった主張できない人たちが通常業務を滞りなく運営している、ということに気づくべきです。

 

耐えることは美徳じゃない

そうはいっても、マネジメントやリーダーだって人の子。すべてを見通せるわけではないし、善良とは限りません。何も言わない人に面倒を押し付けた方が楽なのです。それに、主張する人の中には、これから忙しくなることがわかっていて、そこから逃げ出すためにあえて研修に行くような人もいたりします。くやしい。

そうとなれば、やっぱり主張すべきです。通常業務を遅延させないために我慢したり耐えたりするのは、話としては美談かもしれませんが、誰にも伝わりません。何事もなかったね、で終わるのです。むしろ研修に行って学ぶ姿勢を見せた方が良い評価を得られます。

それでは通常業務が滞ってしまう、と思いますが、それを考えて許可を出すのはマネジメントやリーダーの仕事です。気にする必要はありません。

 

 

さて。コミュ障を自認してやまない私ですから、声は小さいですし、主張できるタイプでもありません。しかし、それも今日までです。私は大きな声で主張したい。人の穴を埋めるための残業などしたくはない、と。しかし研修も面倒なのでやりたくない、と。日中はExcelを方眼紙状にしてピクロスっぽく絵を描いて過ごし、定時になったらすぐに帰宅したいのだ、と。

あ、仕事の心構えの研修に行け、ということですね。承知しました。(か細い声で)

 

 

 

オリンピックの、身につまされる不穏な雰囲気の話

時事ネタだし、後で読んだときに見通しの甘さを指摘されるかもしれないから、短めにしよう、と思って書いたのに長くなりました。思いと事象が異なることは慣れっこです。ひろさきです。

 

 

オリンピックが始まります。関係者が次々といなくなっていく、なんとも不穏で不安な気分のままスタートを迎えますが、この感覚何かに似ている気がします。

あれです。膨れ上がる不具合に度重なるリスケ、当初費用を大幅に超過して資金が底をつき、キーパーソンが次々と倒れそして辞めていく大規模プロジェクトの雰囲気に似ています。

大規模プロジェクトの場合、どうしてそんなことになるかと言えば、

・コンサルとベンダーの甘言に乗せられて甘い見通しのままスタートを決めてしまう

・マネジメントが現場を知らない世渡り上手な仲間内で構成されている

・トップの意向による場当たり的なスケジュール

・ビジネス部門の大量な仕様変更を断れない

・開発中に人が変わりすぎる

他にもありますが、これらの原因は概ねコンサルにマネジメントを丸投げし、現場はベンダーに丸投げした構造によるところが大きい。

 

これ、オリンピックも同じ構造に見えます。

・広告代理店の甘言に乗せられ、甘い見通しでスタート

・大規模スポーツイベントの何も知らない人たちが、町内盆踊りのノリで身内を起用

・1年猶予があったにも関わらず場当たり的としか思えないずさんな計画

・アルコールの件や観客の件。当初には競技場のデザインもありましたね

・「謎」の失踪で次々に人が変わっていきました

 

となると、今後の流れも見えてきそうです。

リリース後の不具合と犯人捜しです。

不具合についてはすでに出てきていますね。コロナのバブル方式とオリンピック村のクレームです。海のにおいもですかね。バグ発生曲線的にはまだ収束しなさそうですが。

そして犯人捜しです。

民間企業ではプロジェクトのトップの名前は決まっています。決まっていますが、マネジメントのお友達なので、直接的には怒られません。スケープゴートを探すことになります。コンサルは手のひらを返し、ベンダーは訴訟をちらつかせるので、結局のところシステム部門の組織全体に罰則を与えて、マネジメントやビジネス部門の溜飲を下げます。

オリンピックではどうなるのでしょう。

トップになりうる人が首相や都知事組織委員会長などより取り見取りです。そして以前のように権力者特有の有耶無耶で終わらせる作戦も、これだけネット社会になった以上、なかなか厳しいように見えます。

ぜひとも事務方の不審死で幕引き的なことはやめていただきたい。

 

そんなわけで見どころ満載なオリンピックですが、どうしても気になることがあります。

オリンピック組織における身内起用人選の「オレわかってるでしょ」感が鼻について仕方ありません。ただの僻みかもしれません。

 

マニュフェストな話

口は出すけど手は出さない。悪しき年寄りを煎じ詰めたようなダメ中年です。ひろさきです。 

 

 

何もわかってない素人ですが、自分が楽に、働かずにダラダラと生きて行くための提言を書いてみたいと思います。政治のプロしか発言できないから、政治屋が蔓延る歪んだ国政になってるんじゃないか、ということを意識しています。まぁ、戯言です。ということで。

 

とりあえず何もしたくないので、まずは何もしなくても生きていける環境作りから考えます。

マニュフェスト1:徹底的なAI化、RPA化

一度便利なものを手にした以上、手放せなくなるのが人情というものです。まずは現状を維持しつつ、人が働かなくても生み出せるように、機械化できることは機械化していこう、という話。基礎研究は官学で進めたとしても、実施するのが民間企業じゃ何も変わらないのでは、、、

そうなんです。資本主義社会が瓦解しない以上、企業の目的は利益を出すことです。ですのでAI化、RPA化のスコープは国営企業となります。

 

マニュフェスト2ライフラインの国有化

リベラリストが憤死するのでは、と思いますが、電気ガス水道、できれば医療も国営・国有化します。今なら通信環境もこれに入るかもしれません。

マニュフェスト1に繋がりますが、結局民間では利益を出す必要があるのです。最低限生きるに必要なものは国営化することで、利益を抑えて安く提供しようということが目的です。なぜならこの後のBIを検討するからです。

 

マニュフェスト3:ベーシックインカムの導入(BI)

みんな大好きBIです。これがなければ、私の夢である働かずして生きていくことができません。ぼんやりしててもお金がもらえるなんて最高です。よく「生活保護」があるからいらないんじゃないか、という話がありますが、制度を利用できる人ならその通りだと思います。申請が面倒くさい、よくわからない、人に聞くことができない、そもそもどうすれば良いか、誰に相談すれば良いか知らない、などの理由で生活保護受けることができずに困窮に喘ぐ人や、残念ながら命を落としてしまわれた方は少なからずいるのでは、と思うのです。ネットでは情弱と揶揄されますが、そうなんです。情報弱者はいるのです。私も困窮に陥ったとき、どこに相談すれば良いかわかりません。相談しに行くことにも抵抗があります。もう少し、生きて行くハードルを下げられたら、と思うのです。

 

マニュフェスト4:手続きの簡素化、削減

税金を納めるのに、どうしてこんなにもいろいろな書類を用意する必要があるのか、引っ越したら、転職したら、入院したら、スマホ買ったら。

何をするにもたくさんの書類が必要な世の中です。規約や免責事項、申請書、お客様確認事項、禁止事項などなど。あんなにたくさんのことを全て読んで理解していちいち記名捺印するのって、皆さんできているのでしょうか?私はちゃんと読まない派です。

これらの文章を読む顧客、これらを説明する店員や役所の人、これらの文章を生み出す人達。どれだけのリソースがかかっているのでしょうか。自動でできることは自動で、思い切ってプロセスを変えるべきです。なんのためにマイナンバーで国民に背番号を振ったのか、という話です。

BI導入にしてもこの手続きの簡素化、削減は大事な要素です。少なくとも国の管轄部分はシステム化、自動化を推進したい。

とはいえIT後進国でおなじみの我が国です。決まらない要件に止まらない仕様変更、そして動かないシステム。莫大な費用をかけて、ゴミを作るのが国技です。完成できる気がしません。

 

マニュフェスト5:いっそのことシステムはゲーム会社に作ってもらう

ところで、1度くらいソーシャルゲームをやったことはありますか?わかりやすく反応の良いUI、親切なチュートリアル、参加者が増えた時のスケーラビリティ、中の人が心配になるほどのアップデートと素早い障害対応。いつも思っていましたが、私も仕事で関わることがある金融機関向けシステムなんかも、ソシャゲをベースに作れないものかな?と考えています。国の運営するシステムや金融系では、堅牢性や確実性が問われるので別物です、ということもわかりますが、それでも動く方がマシだし、システム構成によってある程度対応可能だと思うのです。それにかかる金額も期間も全然違います。

ユーザーたる国民もわかりやすいシステムの方が良いですし、申請コストもかなり下がるのではないでしょうか。いくら操作性が高くてストレスがなくても、確定申告の周回プレイはイヤですが。

 

こうして国民全体のリソースを最適化し余剰を生み出すことで、さらにクリエイティブなタスクにリソースを集中できるわけです。散々な生産性が改善できるかもしれません。一方で私のようにだらだたと寝返りを打つことに心血をそそぐこともできようになるのです。素晴らしい。

 

マニュフェスト6:ついでにスマホで投票

投票率が低いです。そりゃ期待ができない政治に、魅力のある立候補者が不在、自分の一票が既得権益に囲われている集団票にかなうわけがない。それでわざわざ近所の投票所まで出向いて投票するのなんて面倒くさすぎます。

そこで。投票システムもゲーム会社に作ってもらえばいいですね。リアルタイムで投票率、得票数もわかるし、ゲーム会社なら演出もいい感じにできそうです。せっかくなのでエンタメにしましょう。

 

マニュフェスト7:財源は。。。

いくら理想を述べたところで先立つものが必要です。世知辛い。

富の再分配ということから、BI以外の所得に関する税はなくならないと思います。残念。どこまで行っても公平公正平等な税負担は、石油産出国で税金がない国でもない限り難しいでしょう。ここは頭のいい人に丸投げ、としたいのですが、思いつくのは既得権益による無駄の削減と、お金を刷っちゃえ、ですかね。円の価値の保持は大事ですが、もう少し他国同様、うまく立ち回って欲しいものです。

 

 

まぁ、今日みた夢を延々と聞かされたような、なんの知見も得られない「贅沢な時間」を過ごさせてしまい、恐縮です。完全に思いつきで、掘り下げられていないものばかりでモニョモニョされたかと思います。もしそう思われたなら、ぜひどこかで「こうしたらいいのに」を発言してみてください。この国で絶対的に足りないものは政治への関心です。

既得権益で老人ばかりがお金を貯め込み、国会でのくだらない応酬で税金を垂れ流す。明らかに不適切な仕組みを是正せず、本当に必要な施策が講じられない。Twitterで与党への投票を止めよう、と意見されても、じゃあ誰に投票すれば良いかわからない。まっとうな人は立候補してはいけない、というルールでもあるのかと思う。これで関心を持てというのが無理な話です。

それでも、ネットの発言を世論も国も無視し続けることができなくなりました。誰かがあなたの意見に賛同し、広がっていくことで国が変わるかもしれない時代です。

 

私はことあるごとに若者の才能を妬んでいますが、それ以上にエチカルな価値観が若者世代のコンセンサスになりつつあるように思い、一縷の希望に見えます。

その希望が社会を変えるところを見てみたいのです。

 

 

いやぁ、私があと20年くらい若かったらなー(チラッ)

誰か立候補してダラダラ生きていける世の中にしてくれないかなー(チラッ)

 

潔癖症な日本人の話

昔は毎日泥だらけになって遊んだもんだ、と回顧しようにも、小さいころからインドア派でした。虫嫌い。ひろさきです。

 

 

街中にゴミ箱がないのにごみが落ちてなく、走っている車はピカピカで、家に入るときには靴を脱ぎ、手洗いやマスクの抵抗も少なく、トイレではお尻もキレイにする。エレベーターのてすりや電車の吊り輪も抗菌が当たりまえ。そんな衛生観念の高い日本ですが、潔癖も行き過ぎると、、、という話です。(バランス教)

 

清潔な環境は気持ちの良いものですが、あまりに潔癖過ぎると強迫観念に囚われてしまい、生活に支障をきたします。電車の吊り輪に触れない、人の作ったおにぎりが食べられない程度ならまだしも、学校や職場で共用物に触れなければならないケースも出てきます。ブラスバンドに入りたいのにみんなで使う楽器に触れない、体育や部活でボールに触れない、コピー機を触る前に除菌スプレーをかけすぎてびしょびしょにしてしまう。精神的に参ってしまい、通院や投薬が必要になる方もいるようです。

 

清潔過ぎる環境は子供の免疫力の低下につながる、といった言説も散見されます。ワクチンがなぜ効果があるのかを考えれば、それも納得できるというものです。科学的根拠が見つかりませんでしたが、清潔過ぎる環境とアレルギーとの関係性を疑う言説もありました。

 

このように清潔さが過ぎる環境は、身体、精神に悪い影響を与えかねない、という話なのですが、じつは日本人のメンタリティとして、割と危うい潔癖レベルでなのでは、と考えています。

 

***

 

オリンピックに限らず毎日のように不祥事が報道され、SNSを中心にあっという間に炎上する時代です。悪事が明るみに出て改善される。まじめに生きている人からすれば、胸のすく話ではあるものの、中にはそこまで言われなくても、、、と、過剰に思える社会的制裁が為されるケースもあります。「思える」と書いた通り、個々人で捉え方や感じ方が異なるので一概にとは言えませんが、10年、20年のオーダーで考えると、許容される社会が遠のいている気がしてなりません。私だけですかね?

最近の日本は、少しの汚れも見逃さない、倫理的にグレーなケースも許さない、そんな強力洗剤のような強い潔癖感を感じます。

 

あまり多くを読んだわけではないのですが、ライトノベルのいくつかを読んでみると、主人公の潔癖な性格が見て取れます。少しの「理不尽」も見逃さず、そのような輩は必ず痛い目を見る。主人公は私利私欲を持たない(でも最強)。

中世ヨーロッパ感のある世界に飛ばされて、主人公の思う「正しくキレイな世界」を実現していく。反対する勢力は悪であり、粛清される。そこには汚れは存在しません。キレイで塵一つなく、あいまいさを排除した直線でできた世界です。それは能力を数値化するところからも伺えます。

 

テレビにおいてもスカッとなんとか、とか、そのような番組が散見されますし、ネット上の掲示板においても創作感満載な「理不尽な人が痛い目にあう話」を目にしたことがあるかと思います。

メディアにおいて、世の人が好むものが多くなるのは言うまでもなく、潔癖過ぎるコンテンツを多く目にするようになったのは、つまりそういうことなんじゃないか、と思うわけです。

 

「清潔さ」は、一見良いこと、正しいと思えます。不潔で汚いのは、イヤですよね。しかしそれを「正義」だと思って固執する人、力を振るう人が出てくると「害」になる。それは「清潔さ」だけではないですが、正しそうに見える分、厄介なんだと思います。

 

さて。以上から私の提言を述べます。

行き過ぎた清潔な世界はディストピアになりかねず、清濁併せ吞むことも必要ではないですかね?(バランス教)

生きやすい世の中には、もっと許容、受容が必要だと思うのです。

 

まずは、ちょっと加齢臭が気になる、キレイにしてるけどなんか不潔そうなおじさんを許容しませんか?

 

 

やっぱり少しは読んでもらいたくなった話

読まれたら読まれたで批判的なコメントをもらったら、思い上がっていた自分に自己嫌悪するまで見えています。めんどくさいおじさんです。ひろさきです。

 

 

気づかずに何か悪いことをしていて怒られるんじゃないか、みんな黙っているけど裏では笑われているんじゃなか、といった強迫観念に囚われたコミュ障なので、他者との距離が果てしなく必要で、パーソナルスペースは東京ドーム3個分と言って憚らないのですが、

承認欲求は心のうちに燻っており、誰かに褒めてほしい認めてほしい、と少年のような心持ちのめんどくさい中年ですので、このブログもやっぱり誰かに読んで欲しいと思うようになりました。そんな折、

SNS時代は「直感的にわかる文章」じゃないと伝わらない|竹村俊助/編集者|note

を読みました。

音楽や動画でも最初の数秒で目や関心を引く必要があるそうです。先日観た関ジャムで藍にいなさんのお話が面白かったです。テレビ大好き。

竹村さんが言及している通り、現代の人は忙しいのです。ブログはもちろん、音楽や動画、ゲームやSNS、すべてのメディアが顧客ひとりの時間の奪い合いをしているわけです。出会いがしらの数秒がいかに大切か、わかろうと言うものです。

 

理解したところで、改めて自身のブログを見てみます。

わかりづらく長ったらしい文章を垂れ流し、画像も文字修飾もほとんどありません。数秒でわかるどころか、最後まで読んでもおよそ意図が掴めません。そもそも内容が暗い話で終始しており、エンタテインメントを求め彷徨う現代人がなぜネガティブなオーラをまとった中年の悲哀に満ちた駄文を読まねばならないというのでしょうか。全くもって何一つ読まれる要素がありません。絶望です。

 

しかし時代はめぐります。

絵画でも抽象派が隆盛したように、悲観主義ショーペンハウアーが時代の支持を得たように。

いずれわかりづらく鬱々として、文章としての体を成していないものが流行するかもしれません。終末思想的な。そうして、意味の分からない文章でも深読みし、こちらが思ってもいなかった意味を持たせて私の文章が持て囃される時代がくるかもしれないのです。

そう、時代が私に追いついていないのがいけないのです。末期。

 

 

結局真実はどうでもよくて、自分に都合のいいことを選択してしまう話

常にどこかが痛み続けるなんて、子供のころは想像すらしませんでした。今はどこにも痛みがない体の想像ができません。ひろさきです。 

 

 

団塊ジュニア世代であり初老でもあるので、身体のいたるところにガタがきています。コロナ禍による外出制限の中、ミスターStayHomeと言っても過言ではないほど外には出ず、生まれながらのインドア派の私ですから、運動などできようはずもありません。それに、嫌々従事している仕事により疲労困憊な状態が長いこと続いています。いい年でなくても体に異変が起ころうというものです。

 

そして朝、いつもの通りトイレに行き、尿を。。。あまりキレイな響きではないので、ニョーと表記します。

ニョーをしたところ、あずきバーを薄めたような色であり、け、け、血ニョーでは!?と血の気が引きました。まあ、ちょっと出ちゃってますからね。

どうするか。

病院ですよね。でも他人と話すことが苦痛で、注射が嫌いな私ですからその選択肢はまだ先に取っておきます。「どうしてこんなになるまでほっておいたんだ!」と怒られるタイプの人間です。

しかし心配なので、Google先生に相談します。「血ニョーとは」と。

悪性腫瘍、結石、膀胱炎、、、わからないけどヤバイ単語だという雰囲気はヒシヒシと伝わります。急いで病院に、となるかと言えば、そうはならない。

検索ワードが悪いということで「ニョーがあずき色」と、少しマイルドな表現にして検索します。結果変わらず。

もっとマイルドな表現を考えた結果、「ニョーの色が濃い」。赤色成分はいったん無視します。

ここでようやく原因として疲労やストレスが出てきます。

そうです。疲労やストレスならいくらでも心当たりがあります。それが原因に違いない。であるから様子を見よう、となるわけです。

 

本日は健康の話をしたかったのではなく、結局人って好ましい結果しか受け入れない、ということを言いたいのです。「正常性バイアス」とか言いますね。異変に気付いてもそんなことない、と言い聞かせてしまう現象です。これは身体の変化や体感する環境の変化だけではなく、意見や思想にも適用されるように思います。

自分の思い込みを強化する意見しか取り込まない。SNSが普及してから、特にその傾向が強くなった結果、原理主義者のような強い言説をする人が増えたように見えます。生きづらい世の中です。

 強い信念は結構ですが、他者に強要するのはどうかと思うのです。ましてや対立して攻撃的な態度をとることや相手を論破することに心血を注ぐなど、もってのほかです。もしかすると、自分の信じている真実や正義は、他者から見れば滑稽であり到底信じられるものではない可能性があるのです。

 

その可能性を今日、ニョーで気づくことができました。サンキューニョー。

まぁ、様子を見るので病院には行きませんけどね。

(そのあと、だいぶ薄まった感じなので大丈夫だと思います)